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山下忍前学長「折々の記」2011

学長折々の記(その29)

今回は、光り輝く話を記させていただこうと思います。

年の瀬の色合いを濃くしてきた10日土曜の夕刻、本学所在の清武の街でイルミネーションの点灯式が行われました。

点灯式は、設置されたイルミネーションの前で18時から開始されましたが、点灯に移る前、宮崎市長さんのご挨拶等に次いで、本学学生の来場者への語りかけがありました。

実は、今年の清武イルミネーションのデザインは、宮崎学園短期大学の学生の考案が採用されたものであり、学生達は、その設置、飾り付けにも係わってきました。そうした縁があって、点灯式の場で語る機会を与えられたのですが、その話には強く胸打たれるものがありました。

来場者の前に立った3人の学生は、それぞれに手製のキャンドルを持ち、静かに、しかし、よく透き通る声で、改めて東北大震災の痛みを思い起こし、その復興を祈念したいと語りました。

話の最後で学生は、黙祷を捧げたいと呼びかけました。来場者の全てが、小さな子供達を含めて、まことに静かに、学生の合図に従いました。いい点灯式であったなとつくづくと思いました。

いくらか遠方の方も、機会を作って、清武の街のイルミネーションを眺めていただけると幸いです。何ともさわやかなイルミネーションであり、夢にあふれ、見つめているとほのぼのとした暖かさが湧き出てきます。

(平成23.12.13記)山下 忍

学長折々の記(その28)

行事いっぱいだった10月も本日でおしまいです。卒業まであと半年もないという2年生のことが念頭にあるからか、後期の日々は前期より足早に過ぎていくように思われます。

12日の創立記念の日には、学長同様、学生の代表も、私達の建学の精神「礼節と勤労」の意義について語ってくれました。また、式典に引き続いて行われた、みやざき中央新聞編集長の水谷謹人氏の講演「10年後のあなたを幸せにする魔法のメッセージ」は、学生、教職員共々に強く引き込まれていく見事なものでした。あれやこれやで、宮崎学園創立72周年、宮崎学園短期大学創設46年の記念日は充実度濃きものであったと喜んでいます。

また、前日の夜まで激しい風雨で心配した秋の忍ヶ丘祭は、開催予定の22日になるとすっかりいい天気となり、特に2日目の23日は、早朝から一点の雲もない快晴で、開催テーマの「宮学短から日本を元気に!」〜One for All,All for One〜を実践するに最も適した状況となりました。内容も、実行委員会の奮闘のもと、まことに味わい濃きものになったと思っています。その後、29日開催の音楽科フェスティバルも、第一部の「学生によるフルート、ホルン、ピアノの演奏」も、第二部の「ミュージカル『ぞうれっしゃがやってきた』」も、心洗われる見事なものでした。振り返れば、いい神無月であったと思います。
ああ、それに今一つ、10月には大きな幸せがありました。ホームページの刷新に合わせて、本学には二人のすてきなマスコットキャラクターが生まれていましたが、その名前の募集に対して100件近くの応募があり、厳正な審査のもと、10月17日に遂に二人のマスコットに名前がつきました。女性マスコットがレイさん、男性がツトムくん。一見単純な名前ですが、レイさんは、建学の精神「礼節」のレイさん、ツトムくんは、建学の精神「勤労」の「勤」、即ちツトムくん。何とも見事な名前で、本学全体、大喜びしています。どうぞ、今後、レイさん、ツトムくんと大いに親しんでいただけると幸いです。

後は、いよいよ霜月、師走と正月までわずか2ヶ月、お互いに一日一日を大切にしていきたいと思います。幸い2年生の就職内定状況は、就職率97.8%という見事な成果を生んだ昨年度より、なおもよい途中経過を見せています。2年生は、この姿をより徹底し、内定率100%を達成すべく、努力を重ねて下さい。1年生は、上学年の努力する姿を、しっかりとその目に焼きつけて下さい。努力する者こそが幸せを得る、それは古今東西変容しようのない真理です。

何だか最後は、学生への激励メッセージとなりましたが、なるほど先生ならではの「折々の記」よと、お笑いおき下さい。

(平成23.10.31記)山下 忍

学長折々の記(その27)

宮崎の地は、ここしばらくは、晴れだったり雨だったりの定まらない天気でしたが、今日は、まさに「天高く馬肥ゆる」の快晴です。学校全体が爽やかな空気に包まれています。

ところで、本学は、九月の末日で前期を終え、10月から後期に入っていきますが、その最初の日の早朝、まさに秋ならではの、身に染みる澄み切ったものを学生から頂戴しました。早目に登学した学生達と屋外で語っていた時、一人の学生が、満面笑みを浮かべて、「秋っぽい匂いがしますね」と口にしたのです。ただそれだけのことですが、後期の始まりの覚悟と緊張を、秋の匂いでもって表現する学生の姿に、何だか深く共感を覚え、こちらも一つ、大きく深呼吸をしたことでした。

本学後半の最初のひと月は、あれこれと賑やかです。

1日の後期オリエンテーションは、無事充実した姿でやり終えることができましたが、12日には、創立記念の式典を開催、15日には、第1学年の保護者の方々を対象に、いわゆる「保護者会」を催します。今年で創設72周年を迎える学校法人宮崎学園の創立の日は10月12日です。各所属機関は、この日揃って式典を行いますが、本学もまた、己れの46回目の誕生日を祝いながら、古希の齢を越え、傘寿に近づいていく宮崎学園を心から祝福したいと思っています。また、保護者会についても、年1回の開催であってみれば、本学が今現在、学生に何を願い、何を求めているかを全力で語りたいと思っています。加えて、今現在の学生の状況を、来学者のお一人お一人に、時間の許すかぎり、しっかりとお伝えしたいと思っています。毎年、出かけていってよかったとの感想をいただいている以上、ご期待に沿うものになるよう、努力したいと思います。

10月には、今一つ、大きな催しがあります。22日(土)、23日(日)の両日に開催される「秋の忍ヶ丘祭」が、それです。短大という何かと厳しい条件のもとで、学生達は全力を尽してこの催しを行います。当人達が決めた今年のテーマは、

「宮学短から日本を元気に!」

〜 One for All,All for One〜

どうぞ、学生達の意気込みに期待を寄せて、見学においでいただけると幸いです。

(平成23.10.6記)山下 忍

学長折々の記(その26)

本学は、8月末で夏季休暇を終え、9月一杯で前期をしめくくって、10月の1日から後期に入っていきますから、7月10日に始まった夏休みも余すところ1週間となりました。

ところで、足早に過ぎた夏休みですが、本学としては、よく中味の詰まった思い出多い休暇期間であったと思っています。特別活動関係で申し上げますと、本学吹奏楽部は、昨年度同様県大会で金賞を受賞し、8月末開催の九州大会に宮崎大、宮崎公立大等の代表としてただ1校出場します。こうなったら九州大会でも最上位を獲得し、全国大会へと駒を進めてほしいと願っているところです。また、今や全国に名を馳せている本学合唱団は、県大会において、金賞並びに特別賞を獲得し、こちらは、9月11日開催の九州大会に出場します。全国大会の常連校となると、そこに宮崎学園短期大学の名があって当たり前みたいに思ってしまいますが、有川先生の指導のもとの練習状況を一度でも見つめてみると、それは、とんでもない軽はずみな判断だとよくわかります。文字通り、血のにじむ指導と練習があって、今日の輝やかしい宮崎学園短期大学合唱団があるのです。九州大会の結果に期待したいと思います。

夏季休暇中の他の行事に移ります。

7月と8月のオープンキャンパスは、8月は台風の影響を心配しましたが、1回、2回共に、当日はよい天気に恵まれて、高校生、保護者共に喜んでいただけるいい催しとなりました。「在学生のあたたかい対応が嬉しかった」、「内容の充実に感動した」、また、「施設の充実にも魅力を覚えた」、そうした感想を目にさせていただくと、学生、教職員一体となって行う本学独自のオープンキャンパスに一層の自信が湧いて参ります。参加いただいた人数も、昨年度を随分と上回りました。改めて深く感謝致します。ありがとうございました。

もう一つ、この夏の忘れ難い思い出を記しておきたいと思います。

それは、学生、教職員一体となっての「まつりえれこっちゃみやざき2011」への参加でした。本学の特徴的な授業科目の一つに、「地域共生Ⅰ・Ⅱ」というのがあります。「Ⅰ」は、「地域交流活動」の科目であり、「Ⅱ」は、「障がいのある子どもたちとのふれあい体験」の授業科目であります。「地域共生Ⅰ」の授業目標となると、その中には、「自分たちの行う活動を町の活性化に役立たせる」とか、「町の人と交流することで、人間としての成長を目指す」といったものがあります。学生たちは、この授業目標にそって、「えれこっちゃみやざき」の「市民総おどり」に参加し、その目標達成に賛同する学生たちも、踊りの輪に加わっていきました。学生たちは、ゆかたや甚平を着用し、学生と思いを等しくする教職員は、宮崎学園短期大学と染め抜いたハッピを身にまとい、また、宮崎学園短期大学と記したのぼりをかかげ、宮崎市内のどまん中を、ゆるやかに踊り抜きました。ちょうど半分を踊り抜いた時、拡声器の設置してある舞台から、「ただ今、宮崎学園短期大学の清楚な踊りが通過しようとしています」との放送がくり返し流れました。「清楚な踊り」、広く市民に届いたこの言葉と共に、総勢60数人の本学の踊りは、生涯忘れ難いこの夏の思い出となりました。

(平成23.8.24記)山下 忍

学長折々の記(その25)

今日は6月の末日です。今日一日が過ぎると、平成23年度もその4分の1が過ぎ去ることになります。

本学も、第2学年は4月の5日から前期の授業を開始し、第1学年は、7日に入学式や入寮式を行い、8、9日の両日で新入生オリエンテーションを済ませて、専攻科生共ども11日に授業を開始しました。

例年通り、年度の初めは、バタバタと忙しく過ぎていきましたが、それでも4月23日の土曜日は、天候に恵まれて、おだやかな気持ちで学友会の一大行事である「春の忍ヶ丘祭」を開催することができました。2年生が1年生を暖かく迎えながら行うこの忍ヶ丘祭は、本学にとって何ともいえないぬくもりを抱かせる行事だと開催のたびに思っています。

5月には、これも予定通りに、第2学年のご父母等を対象にした「2年生保護者会」を開催しました。昨年度をはるかに越すご父母の参加を得て、まことに有難いことでした。就職に係わること、日々の学校生活に関すること、ご家庭の要望等々をしっかり語り合うというのは、高等教育機関においても大切なことだと思っています。

6月も、本学がより充実度濃い短期大学となるべく、実習関係をはじめ、様々な努力を払ってきましたが、何か一つを取りあげて、ご紹介しておくとなると、25日の土曜午後に催した「こども音楽教育センターサマーコンサート」となるでしょうか。

本学は、学内に「こども音楽教育センター」を設置し、幼いこどもや、心身に不自由のあるこども達が、音楽療法や音楽教育によってのびやかな成長を遂げるように教育活動を行っていますが、25日は、こども達がどのような発達、成長を見せているか、また、どのような可能性を秘めているか、そうした姿が披露された次第です。この教育センター並びにコンサートは、それ相応の歴史を持っていますが、当日14時から17時近くまで行われた発表は、まさに感動の連続でした。何よりも出演したこども達が、例外なく生き生きとし、力の限りを尽していました。教え導いている先生方も、全力を出し尽しておいででした。こども達一人一人に注がれる行動の全てに、限りないあたたかさがありました。

また、先生方の手助けをする本学の音楽科並びに音楽療法専攻科生も見事でした。こども達のために働く一挙手一投足に、先生方に負けないあたたかさがあふれていました。

私は、プログラムの一つ一つを鑑賞し、心が舞台と一体となることを感じながら、ここに本物の教育ありと、心底から思いました。こどもと、親と、先生と、学生と、それらの全てが一つの目標に向かって必死に突き進み、その進む道程に、人を感動させずにはおかないあたたかさがある。本物の教育とはそういうものではないかと思いました。そして、その教育が、私たちの学校、私たちの宮崎学園短期大学にあることに、大きな誇りを覚えました。

こうして思い起こし、思い起こすことを記してみると、この平成23年度の初め4分の1も、いい月日であったなと思います。同時に、幸せとは、こういう思い、こういう状況に身を置き得ることではないのかと、少年みたいに感じ入っています。

(平成23.6.30記)山下 忍

学長折々の記(その24)

先ほど、本館、国際交流センター棟、記念館、そうした建物に添った箇所を一巡してきたところです。

宮崎の地は、五月の下旬に梅雨期に入り、六月を迎えた今日も雨の一日です。ただ雨といっても今日の雨は、傘なしでもかまわないといった程度の霧雨で、キャンパスを囲む花々や木々の緑を見つめるのには、最適の状況でした。

ところで、この時期、本学を彩る花の代表は紫陽花です。学園短大前のバス停から正門に至るまでの右手一帯を味付けしているのも紫陽花ですし、本館から記念館にかけての道々には、数種類の紫陽花が学内を行き来する人々の目を楽しませてくれます。ただ、記念館の裏手で特に目を引くのはビワの木です。毎年小粒の実をつけているビワの木ですが、今年は、ビワの当たり年なのでしょうか、まさに枝もたわわに実をつけています。大きな声では言えないのですが、一つもぎとって口にすると、市販のビワとはまた異なった何とも深い味わいを有したビワの実です。ところで、本館に帰って、玄関前の公孫樹に目をやりますと、ついこの間まで可愛いい小さな葉っぱを芽吹かせていたと思うのに、今や樹木全体が緑に覆われ、今日、丹念にみつめると、どの枝々にも、直径1センチ強の実が数多くついているのです。かつて、花の美しさを競い合っていた桜や桃の木が、今や共に緑の美しさで身を覆い、長い期間、裸一貫で生きてきた公孫樹が、これまた美しい緑で身をまとい、加えて玉のような実をつけている。いつの年も味わう喜びですが、何だか今年は、例年にもまして輝いているように思われます。

こうして本学の幸せを記していますと、やはり、どうしても胸中に湧き出してくるのは、東日本大震災の厳しさです。新聞、テレビの報道に加えて、本学の男子学生が己の意思で実行した宮城県の女川、石巻でのボランティア活動の報告を思い起こすと、こちらが恵まれた状況にある分、東北の悲しさが強く激しく迫ってきます。人は、しばしば右の手に幸せをつかみ、左手で悲しみをつかみながら生きていかざるを得ませんが、今は、日本全体が、喜びと悲しみを同時に抱きながら過ごさざるを得ないのだと思っています。本学としても、節電をはじめとして、復興のためにやれることはしっかりとやる。その折、東日本も、これまでの日本がそうであったように、たとえ時間はかかろうと必ずや復活する、そう固く信じ、苦難に立ち向かっている人々と気持ちを一つにしながら一日一日を過ごしていく。そのようでなければと、改めて思いを強く掻き立てています。

(平成23.6.2記)山下 忍

学長折々の記(その23)

この忍ヶ丘の地で学び、卒業していった人々はよく承知していることですが、本学には、 学友会のみなさんが特に大切にしている二つの行事があります。年度当初に開催され る「春の忍ヶ丘祭」と、秋の季節に、二日間にわたって催される「忍ヶ丘祭」の二大行事 が、それです。学生諸君は、この「お祭り」に特別な親しみを込めて、春のお祭りを「春 忍(はるしの)」と呼び、秋のお祭りを「秋忍(あきしの)」と呼んだりしています。

その大事な「春の忍ヶ丘祭」が、昨年度はすっかり雨に祟られて、順延の措置までと ったのに、とうとう開催することができませんでした。2年生の諸君は、その悔しさをしっ かりと記憶にとどめています。なにさま、「春忍」は、体育祭の趣向で愉快に半日を過ご すということにとどまらず、その催しの、少なくとも半分は、新たに入学してきた学友を存 分に歓迎するという役割を担っているのです。

本年度は、4月の23日が「春の忍ヶ丘祭」の開催予定日でしたが、学友会役員のみな さんや実行委員会の面々は、開催予定日の随分と前から、今年度は、何が何でも「春忍」 をやってみせると意気込んでいました。一方、天候はどうか。長くいい天気が続いていた のに、週間の予報では、前日の22日の午後から雨天となり、23日当日の午前中までは 雨が残るというものでした。その何とももの悲しい予報の中で、22日のお昼に、学友会会 長や実行委員長も加わって、実施の是非をめぐる協議を行いました。用意した複数の天 候の情報や運動場の状況等をにらみながらの検討でしたが、出した結論は、よし、思い切 って予定通りにやろうということでした。さて、当日はどうだったか。天は、学生に味方しまし た。運動場は適当なしめりでほこりも立たず、途中からは明るい日射しも加わり、最高の 「春忍日和」となりました。全学生と全教職員は、そうした状況のもと、笑いと喜びを撒き 散らしながら、嬉嬉として「春忍」を楽しみました。

ところで、先日、学友会会長が学長室に顔を出してくれました。学生代表である会長は、 催しに対する教職員の協力について、深くお礼を述べると共に、力足らずで、何かと先生 方や職員の方々に迷惑をかけてすみませんでしたとお詫びを述べました。大切な行事に、 くたくたになるまで全力で取り組み、その上で、あの点は力不足だった、あの部分では迷 惑をかけることになったと、くちびるを咬む。若者は、こうした行動をとりながら、一つ、また 一つと、階段をのぼっていくのであろう。そうした若者達と、共に過ごし得ている幸せを、ここ数日は、特に強く感じています。

(平成23.4.28記)山下 忍

学長折々の記(その22)

入学式も終了し、4月も中旬に移った今、年度始めの、あの心の高ぶりを交えた雰囲気から、平常の落着きのある姿へと、学校全体が還ってきたと感じています。

ところで、本年度の入学式は、例年のそれと幾らか異なるところがありました。何の憂いもなく入学式が挙行できるが故に、式典開始の前には、東日本の苦しみを思って黙祷を捧げ、新入学生の宣誓も、大災害の苦しみを思い、再起を願うところから始まりました。がんばれ東北!がんばれ日本!そうした思いのもとに、式典そのものや、学生の宣誓が行われたというのは、それなりに大きな意義を有していたと言ってよかろうと思います。

一方、私は、入学式における学長式辞において、本学の在学中に、四つの力を養うべく努力し、是非ともそれを身につけて欲しいと願いました。四つの力とは、「しっかりと物事を見つめる力」、「しっかりと考える力」、「しっかりと判断する力」、そして、「しっかりと行動する力」です。私は、新入生にこのことを願い、訴える間、胸中においては、小林秀雄の言葉を強く意識しておりました。文学より一段下に見られていた批評、評論を、文学そのものの位置にまで引き上げた評論家小林秀雄は、世の人々に、「よく見ることの大切さ」を説き続けました。真偽を判断し、ものの奥底にあるものの実体を把握する為には、「見ること」「見つめること」、それも、「よく見ること」「よく見つめること」が大切だと訴えました。私もまた、この言に深く共感します。

私は、この宮崎学園短期大学で学ぶ若者達が、よく勉学し、よく物事を見つめ、よく考え、よく判断し、すぐれた行動力を発揮することを、心底から願っています。そして、その為にも、常平生から、志高く生きてほしいと願っています。私は、5月10日に発行予定の「忍ヶ丘だより」の学長所感においては、盛岡の地が生んだ新渡戸稲造の「われ太平洋の橋とならん」の言葉を引用しました。日本が生んだ世界的偉人と称してよい新渡戸稲造は、「自分は日本と西洋の掛け橋になって見せる」と、驚くほどの高い志を持って日々を過ごし、遂に志通りの人物になりました。

私は、若者は、「ホラ吹き」であっていいのだと思っています。ケチ臭いことでホラを吹いては笑止千万ですが、高い目標を定め、それを旗印として掲げる折は、時に周囲が、ホラではないのかとあきれ返るような様相を呈してもよいのだと思っています。本学で学ぶ若者達が、われもわれもと目を見張る目標をかかげ、天を貫ぬく志のもと、その的に向かって突進する。そうした姿を思い浮かべると、まさに胸躍る思いが湧き出てきます。

新たな年度、この平成23年度は、こうした夢を次々と描きながら、ただし、地に足をつけるべきところは、しっかりとつけながら、躍動的な歩みを続けていきたいと願っています。

(平成23.4.12記)山下 忍

学長折々の記(その21)

平成23年度という新たな年度を迎えた今、宮崎学園短期大学のキャンパスは、花と緑で一杯です。学生の憩いの場所としている中庭や、自転車・バイクの置き場の回りには、今を盛りと桃の花が咲き誇っていますし、それに競い合うように、学園図書館の周辺を始めとして、目を見張る姿でそめい吉野が、文字通り桜花爛漫の様相を呈しています。緑となると、もとより明教庵を取りまく世界が見事です。

私たちは、こうした美しさを背景としながら、4月7日の入学式が挙行できることに、大きな喜びを覚えています。同時に私たちは、口蹄疫や鳥インフルエンザ、そして、新燃岳の大噴火という宮崎県のかかえる問題、そしてまた、3月11日の発生以来、4月を迎えた今も、悲惨の度を一層深めている東日本大震災の問題、これから目を逸らして日々の生活を送ることは出来ません。私たちは今、美しさと悲惨さという、多くの場合相入れることのない二つのものを、同時的に凝視しながら生活していかざるを得ないし、そうすることが人間としての義務だと言い切ってよかろうと思います。 私は今、強く、かつ、心底から思っています。

教職員は、今こそ力の限りを尽くし教育力を高め、学生は、新たに入学してくる者を含めて、今こそ全力で学修力を高めるべきであると。教える者も、教わる者も、共に学ぶ力を高めていく。授業を通し、読書を通し、そして何より、建学の精神「礼節と勤労」を通して、しっかりと物事を見つめる力、考えるべきことを全力で考え抜く力、諸々の情報から正しい判断を導びき出す力、そして、たくましい実践力。それらを、力を尽くして獲得していく。何より、まずは自分がそれを実行する。私は、私自身に、今、強く語りかけ、求めています。そして、本学全体で、是非ともそうありたいと願っているのです。悲しく辛い出来事を、悲しく辛いままに終わらせたくない。悲しく辛いが故に、そこから何かをつかみたい。それが出来るか、出来ないか。人間力を試されるということは、そういうことであろうと思います。

宮崎学園短期大学としても、覚悟を新たにして、新年度を力強く歩いていきたいと思っています。

(平成23.4.2記)山下 忍

学長折々の記(その20)

今朝はまた、新聞からいいことを一つ教わりました。

3月9日の今日は、「感謝の日」ということなんだそうです。語呂合わせで、3と9をサンキュウと呼び、今日の一日を、特に感謝の念を呼び起こしたり、積極的に「ありがとう」と感謝の意を表したりする日にしたとのことですが、記事を目にした途端に、ああ、いい日を設定していただいているなと思いました。

今年度もあと僅かでおしまいになりますが、宮崎学園短期大学にしても、この1年間、様々な有難さに恵まれました。

一番真新しいことを記しますと、本学は、ニューライフ・アカデミーと称して、毎年学外の方々を対象にした公開講座を開催しているのですが、本年度の講座を2月の下旬に無事終えた後、受講生の方々から早速2通のお便りをいただきました。

1通には、「私達の為にアカデミーを開講して頂きありがとうございました。」と感謝の言葉があり、その言葉に続いて、「拙私、高齢の域に入りつつあり、血肉とするは少々苦しい齢ですが、有意義な講義と修了式後には、心温まる茶菓のお持て成し、その後も記念写真もお送り頂き、至極の時間の数々、心からお礼を申し上げます。」とありました。本学のささやかなプレゼントを、これほどの感謝の念をもってお受け取りいただき、こちらこそお礼の申しようもありません。

もう1通は、新燃岳の麓の町でお過ごしの方からのお便りで、「本日の新燃岳は春の日にふさわしいような穏やかさを見せています。」の書き出しによって、こちらをほっとさせていただいた上で、「過日は宮崎学園短大公開講座『ニューライフ・アカデミー』で大変お世話になりました。どの講座も、本年度のテーマ『時が紡いだもの』にふさわしい講座内容でした。今年も案内いただき、喜び勇んで清武まで車を走らせました。行きは、『今日はどんなお話が聞けるかしら』と胸をときめかせ、帰りは本日の講座内容を反芻しながら・・・・・。」と記してありました。

公開講座を開催する以上、1回1回を全力で行わなければとは覚悟していますが、終了後にこうしたお便りをいただくと、もっともっとしっかりと実施し、それを継続していきたいとの思いが募ります。

感謝は美しく飛び火する、そんな思いも湧き出る3月9日でした。

(平成23.3.9記)山下 忍

学長折々の記(その19)

昨日は、心豊かな一刻を過ごすことができました。精神の集中を必要とする会議を終えた夕刻、学内を一巡して中庭に至った時、今や樹木全体が花に覆われている梅の木が目に飛びこんできました。

以前、剪定を行った後、何だか弱ったかに見えた樹木がすっかり元気を取り戻し、千手観音風に枝を広げ、その枝々全てに豊富に花をつけている姿を目にすると、「よく頑張ったね」、「見事だね」と、自ずと声をかけたくなり、同時に、こちらの体内からすっと一日の疲れが拭い取られていくような気がします。

ご承知の通り、宮崎の地は、昨年から今年にかけて、まことに厳しい状況下にあります。口蹄疫は、畜産関係の人々を頂点にして、宮崎県民の全てを悲しみのどん底に落とし入れました。その苦しみから脱出し得ない中での鳥インフルエンザの全県的な発生です。そして、これもご承知の通り、新燃岳の噴火が苦しみを二重三重にしています。

そうした厳しさの中での満開の花と香り、そして、茂った枝々の間を軽やかに飛び交う目白のプレゼントであってみれば、一層の喜びと安らぎであったのかもしれません。

人生には、予期せぬ喜びがあり、同様に、予期せぬ悲しみがあるとは承知していますが、噴火の危険から身を守ろうとして避難所で生活するお年寄りが、「なにせ、自然が引き起こす災害だから・・・・」と口にしておいでの姿を目にすると、そうしたお年の方々にも、是非是非心穏やかな一刻をと願わずにはおれません。

(平成23.2.22記)山下 忍

学長折々の記(その18)

月々の異称に、私は言いようのない親しみを覚えます。

郷愁を伴った親しみとでも言うべきでしょうか。

桜に彩られた如月と、卯の花匂う卯月に囲まれた三月となると、これは何といっても弥生あっての三月だと、勝手に思い込んだりもするのです。

ところで、睦月に始まる12ヶ月の異称の中で、特に思いを掻き立てられる異称は、と問われるならば、私は、それは師走でしょうか、と答えます。月の異称の解釈、説明は諸々にありますが、「師走」は、やはり「為果つ」から転じたものと見るのが妥当であろうと私も思います。

睦月の月立ちから新たな年が始まって、皐月も過ぎ、葉月も過ぎ、ついに霜月も過ぎて1年の最後の月を迎える。当然その月は、一年の中でなおもやり残していることを、片づけ、為し遂げる役目を担うことになります。したがって私達の先祖は、1年365日をしめくくる重要な月を、「しはつ」、転じて「しはす」と名づけたのです。

私は、しばしば、昔々から伝わる言葉の見事さに驚嘆させられますが、この「師走」もまた、それらの言葉の代表格かと思っています。

それにしても本学は、この「師走」に恥じない行動を平成22年にとってきたでありましょうか。

平成22年の睦月の13日から、ニューライフ市民講座を開講して市民との連携を深め、如月の2日には文化勲章受章者の日野原重明先生をお迎えして、宮崎学園創立70周年の記念講演会を開催、弥生19日には、おごそかにして暖かみのある卒業式、修了式を挙行しました。

年度がかわっての卯月7日には入学式を執り行い、皐月の22日に第2学年保護者会を開催、水無月の26日には第1回のインタビュー入試の一次を実施しました。文月になると、7日に出身校・地域別ファミリー集会を開催し、17日には吹奏楽部が県吹奏楽コンクールに出場して金賞を獲得、葉月の8日には、宮崎県を震撼させた口蹄疫に細心の注意を払いながら、オープンキャンパスを開催、予想をはるかに越える来学者に大きな感謝と感動を覚えました。

長月に入ると、12日に合唱団が九州合唱コンクールに出場して金賞を獲得、19日に第2回のオープンキャンパスを開催、今回もまた多数の来学者を迎えることができました。神無月12日創立記念式典を挙行、16日、第1学年保護者会開催、23、24日の2日間、雨天の中で何の事故もなく、秋の忍ヶ丘祭を開催。霜月になると、13日に音楽科の定期演奏会を開催、20日には、合唱団が第63回全日本合唱コンクールに出場して銀賞を獲得しました。

そして、1年最後の月の師走。4日にイオンホールにて保育フェスティバルを開催し、翌日5日に、大坪記念ホールにおいて音楽科のフェスティバルを開催、共に1年をしめくくるにふさわしい見事なフェスティバルであったと自負しています。

また、音楽科1年生による「図書館ミニミニコンサート」が催されましたが、このミニミニコンサートも、この1年で、本学にすっかり定着することができました。次いで、12日には、初等教育科と人間文化学科のフェスティバルが、これもイオンホールにて開催され、これで4学科揃ってのフェスティバル開催となりました。なお、クリスマスの25日には、来年度本学に入学予定の若者を対象にした「入学前教育第1回スクーリング」が、全教職員の参加、歓迎のもとで行われることになっています。

このように、平成22年の1年間を、幾つかの催し、実践を取りあげながら振り返ってみますと、宮崎学園短期大学は、「為果てる月」に向かって一歩一歩歩みを進め、「師走」という月を、その名に恥じないように過ごしていると評価してよかろうと思います。もちろん、今現在の姿で十分ということではありません。十分ではないが、しかし、日々の歩みを疎かにはしていない。私達は、そうした自信と誇りを抱いて新たな年、平成23年を迎えてよかろうと思っています。

折もおり、12月の5日から「坂の上の雲」の第2部が始まりました。志高き作家が、志強き人々を描きあげ、それを熱き思いで演じ切っている作品、そうした志一杯の世界を見つめていると、到達し得る地点に差異はあろうと、とにもかくにも志高く教育の世界を歩いていきたい、そんな思いが、強く、大きく湧き出てきます。

(平成22.12.14記)山下 忍

学長折々の記(その17)

宮崎の地でも夕陽の美しい季節を迎えています。

11月半ばのこの時期なら、夕方の5時過ぎ、大淀川の川面を真っ赤に染める夕陽が何と言っても絶景で、川端康成ならずとも観る者等しく宮崎万歳と叫びたくなります。

その大淀川の夕陽に負けないのが、私は、明教庵の前庭から眺める夕陽だと思っています。本当?と疑う人は、5時になるかならないかの時刻から、本学明教庵に足を運んでみて下さい。足をくじいていたりして車椅子を使っている人は、そうした方用の安全な通路も用意してありますから、その道を使うなり、階段を使うなりして、改築なった明教庵においでになって下さい。前庭には、大樹の丸太で造った素朴な椅子も用意してあります。よかったら、それに腰を下ろして、沈みゆく夕陽を眺めて下さい。明教庵の夕陽は、まずは、連なる山々の上空にかかる雲をしっとりと染め、時を待たずして山の端を染め、正真正銘息を呑む美しさを呈してくれます。

そんなに、バカみたいに自慢してと評されてもいいのです。わが日々を過ごす学園が、4階にあがってはるか東方に目をやると白波の立つ日向灘が目に入り、宮崎の地には珍らしく街全体にうっすらと雪が降り敷くと、本学の通用門からはるか西方に純白の雪をいただいた霧島山が浮かびあがり、春は小鳥がさえずり、夏は緑にむせび、そして、秋は夕陽に心打たれる。そうした折々の美しさに囲まれながら、息軒先生の「三計とは何ぞや」を背中に受けて学問を積む、これはまさに幸せの最たるものだと思うのです。

明教庵は、本学の建学の精神「礼節と勤労」の「礼節」を学ぶ教場です。その場所が、秋の季節を迎えると、夕陽でキラキラと輝く姿となって飛翔する。嬉しいし、何とも有難いことです。

(平成22.11.12記)山下 忍

学長折々の記(その16)

「学長折々の記」の(その15)を記したのが22年の6月11日ですから、随分と長い間、「折々の記」の執筆から遠ざかっていたことになります。勿論、この間、書く気力が萎えたとか、書く内容に窮したとか、そんなことではありません。本学が発行する「忍ヶ丘だより」や、「後援会だより」にはペンを執ってきましたし、書くに相応しい出来事となると、予想をはるかに上回る来学者を見た「オープンキャンパス」のこととか、九州大会で銀賞を獲得した吹奏楽部のこと、あるいは、これまた九州大会に進んで今年度も金賞を手にした合唱団の活躍等々、書く内容には事欠かない状況にありました。

では、なぜ書かなかったか。それは、7月8月の夏季休業中を中心に、ひたすらに考え続けることがあったからです。

では、一体何をそんなに長い期間、考え続けていたのか。

一つは、本学が、短期大学として絶対的な存在価値を持ち続けるためには、今後どうあればよいかという問題でした。本学は、例えば保育科に視点を当てれば、創立の1965年(昭和40年)以来、45年間にわたってすぐれた保育士を世に送り出してきました。本学卒業の保育士が、保育所、保育園においていかに大きな役割を果たしてきたかは、宮崎県の保育士の6割は本学卒業生で占められているという事実自体が、如実に示していると思います。また、義務教育界に限っていえば、今現在300名の本学出身教諭が県下の小中学校で教壇に立ち、すぐれた教師との評価を得ていますが、それらは、初等教育科や人間文化学科の質の高さの自ずからなる証明だと言ってよかろうと思います。そしてまた、本学音楽科がオルガン教室等への人材供給と共に、演奏活動等によって音楽界に活気を吹き込み、加えて、音楽療法分野において先駆的働きをしていることは周知の通りであります。

そうした状況が、今既にありますが、その姿をより質の高いものにし、本学の存在自体を感動的なものにするためには、今後どうあればよいのか。そのことを具体的にしっかりと考え、見通すためには、それなりの期間と集中力が必要でした。考えに考える中で、いくらかは先々のあるべき姿が見えてきたかと思っています。

今一つ考え続けたのは、在学生並びに今後入学してくる若者に、いかにして勉学してやまない姿勢と実践力を身につけてもらうかという問題でした。本学には、今現に寸刻を惜しんで勉学している学生が数多くいます。そうした学生の日々の姿は美しさと輝きで一杯です。その見事な姿、状況を、全学生、本学に係わる全若者の共通項とするためには、教育の場で何を企画し、それをどう実行していけばよいのか。そのことも深く沈思黙考すべき大きな課題でした。本学は去る8月と9月にオープンキャンパスを開催し、多数の来学者を迎えましたが、見学を終えて帰っていく高校生に求めたアンケートの中の、「この短大に入学するとしてどの様なことを考えましたか」の問いに、「勉強をする」「勉強することがもとより大切」「勉強は大変だけど頑張る」と、「勉強をする」覚悟と意欲を随分と見ることができました。「楽しく学生生活を送りたい」という願いも当然ありましたが、回答の多くは、「私も入学したら先輩のように意欲的に頑張りたい」という健気なものでした。

私は、この回答は、その場をつくろった虚ろなものではなく、短大という一つの新たな勉学の世界を目にした折に自ずと湧き出た、ごく自然なものであろうと思っています。若者は誰彼を問わず、本当は大いに勉学がしたいのです。勉強して己を鍛えたい、それが若者の本来の姿なのです。そうした願いをどうしっかり受け止め、永続性のあるものに育て、向上させていくか。それが教育者に与えられた責務だと思っています。そうしたことも、長い時間考え続けてきました。そして、この課題についても、それなりの目途を得たと思っています。

有難いことに、膨大な支援のもと、宮崎県は口蹄疫の問題からも一応脱却しました。今は、新たな芽吹きのもと、大いなる成長を見るべく、様々の分野で努力、奮闘中です。そうした姿にひけを取らないよう、本学は宮崎の地で、これこそが教育という姿をうち立てていきたいと思っています。

(平成22.10. 8記)山下 忍

学長折々の記(その15)

今日の宮崎県宮崎市は、晴れわたったいい天気です。さわやかな風も吹いています。そうであるのに、気持ちは一向にカラッとしません。

猛威を振るっている口蹄疫も、今に終息に向かわないはずがない、現にえびの市では囲い込みに成功し、ウイルスの消滅に至ったと胸をなでおろしかけた途端に、絶対に飛び火してはならない都城市でも遂に発症を見てしまいました。本学としても残念でなりません。

東国原知事の非常事態宣言を受けて、ただちに消毒液を十分に染み込ませたマットをキャンパス内の出入口に設置した本学でしたが、それに加えて、新たに正門、裏門の出入口に、また、学生や教職員の駐車場出入口に、厚みをもって石灰を敷き詰めました。

口蹄疫の広がり具合からみて、ウイルスは、あるいは鳥や昆虫によっても運ばれているのかもしれないといった情報を目にすると、対策はまことに厳しいなと思うのですが、そうであればあるほど、学校も、学生と教職員が一体となって、やれる限りのことはやり抜くという覚悟と実践が必要だと思っています。

間もなく本学は、オープンキャンパスの開催の時期を迎えますが、予定通りに実施してよいものか、延期に踏み切るのが適切か、口蹄疫の状況と畜産農家のお気持ち、それに県民の声を正しく受け止めながら事を運んでいきたいと思っています。

それにしても、ともかく今は、学生も教職員も、努めて足もとの消毒を徹底する、手洗いもしっかりやる、 自動車を利用していて消毒ポイントにさしかかったら、積極的に車の消毒を行う、そうしたことごとを日々着実にやり遂げていきたいと思っています。

(平成22.6.11記)山下 忍

学長折々の記(その14)

毎年、1年のうちの幾日かは、早朝の新聞を開くのに勇気が必要となりますが、 宮崎の地に住まう者として、今がその期間です。 県内に、「口蹄疫」発生のニュースが走って以後の一日一日は、 畜産業とは無縁の県民にとっても、厳しく辛い日々となっています。

生業として牛や豚を育てていても、「命をつなぐものの命たち」を養育 しておれば、自ずと情も移ります。 情が移り、その情を大切にしながらの飼育を徹底するがゆえに、 宮崎の肉は他に誇れる上質のものとなっていったのです。

「命をつないでくれる」動物を、「そこにいてはならないもの」 として処分していくことの何と悲しいことか。 昨日は何百頭、今日新たに処分の対象となったのは何千頭という 報道を目にすると、そうした現場そのものに身を置いている人々の 苦悩、苦渋が、痛いほどに分かります。作業に当たられる方々が 体調をこわされることのないようにと、祈るばかりです。

本学内においては、学友会の役員を中心に一昨日から募金活動を開始しました。 また、5月18日の「宮崎県『口蹄疫』非常事態宣言」を受けて、 19日には校舎の出入口に消毒液を染みこませたマットを設置しました。 そうした行動が、些細ではあっても、「口蹄疫」の終焉に役立ってくれたらと願っています。

(平成22.5.20記)山下 忍

学長折々の記(その13)

教育関係の資料を目にしている中で、大阪大学が、「21世紀の懐徳堂」をキャッチフレーズにして活動を展開していることを知りました。知り得た途端に、だったら宮崎学園短期大学は、「21世紀の明教堂」として教育活動を実践し、有為な人材を社会に送り出すと、新たな覚悟が噴出しました。

何も阪大のコピーとして、本学が教育を行っていくというのではありません。 ご承知の方も多かろうと思いますが、1827年(文政10年)の10月に、本学 が所在するこの清武の中野の地に「明教堂」が落成しました。明教堂は、 その名の通り、「人としてふみ行うべき正しい道を明らかにする」学問所 であり、安井滄洲、安井息軒というお二人の師のもと、多くの子弟が 感動的に教えを受け、学問の道を深めていきました。

宮崎学園短期大学の建学の精神「礼節と勤労」は、「自分の心や 行いを正し」、「人としてのあるべき生き方を身につける」という明教堂の 教えを、しっかりと受け継いだものとなっています。思えば、本学は、 1965年(昭和40年)の創立以来、「20世紀の明教堂」、次いで、 「21世紀の明教堂」として、この中野、即ち、忍ヶ丘の地に在り続け てきたのではなかったか。学問の分野は、今や微に入り細に渡っ ていますが、その根幹にでんと腰をすえてあるべきものは、「人の ふみ行うべき道」を思索し、これを明らかにして、その実践に努力す るところにあるはずです。

この宮崎の地においても、少子化や都会志向という傾向の中で、郷 里にあって高等教育を受ける人の数が減少していますが、私は、 宮崎の若い皆さんに、この日向の地にも江戸の昔から「明教堂」とい う価値高き学問所があり、そこでの志し、教えを正しく継承し、これを 発展、進化させる姿で、同じ場所に短期大学が存続し、日々真摯に 教育活動を展開していることを承知してほしいと願っています。 もちろん、本学は、「21世紀の明教堂」を旗印として掲げる以上は、 大学自体の内容充実に向けて一層の努力を払っていくことを姿勢を正して誓います。

(平成22.4.23記)山下 忍

学長折々の記(その12)

2010年の4月も、既に半ばが過ぎようとしています。

本学本館前のまろやかな銀杏は、そのやわらかく、つややかな緑によって、新たな年度の歩みを、それとなく祝福してくれているように思われます。

第2学年生は4月の5日に前期オリエンテーションを実施し、翌日から授業に入りました。

22年度に本学を志望し、入学した若者は、本科と専攻科を合わせて320名。7日に入学式を挙行して、8日と9日にオリエンテーションを行い、12日の月曜から授業に入っています。

1、2年のオリエンテーション時には、各部局の代表者や学科長は、全力で平成22年度における学生のあるべき姿について語りました。学長もまた、入学式や各学年のオリエンテーション時に、「学長として願ってやまないこと」を語り、訴えました。特に、入学式において訴え、求めたのは、「てげてげへの挑戦」でした。

私は、宮崎の地には宮崎ならではの良さがあると十分に認めながら、「だが、宮崎は代表的後進県である」という評価も、れっきとした現実であると思っています。そして、その最大の原因は、「てげてげ精神」への妥協であり、許容であると思っています。

気候条件一つにしても、まことに厳しい北国の人々が、その悪条件のもと、様々な難題に果敢にアタックし、その克服に全力で取り組んでいる時、温暖な日向の地の人々は、「まあ、それなりに、てげてげに」とゆるやかに過ごし、結果として、経済面も、政治力も、そして、教育の方面も、それら全てが全国の平均をはるかに下回るものとなり、てげてげなものとなってしまった。

そうした全県的状況の中で、この忍ヶ丘の地に生まれ育った安井息軒先生は、「てげてげ」に対峙する姿で勉学し、名を為した。私達は、その姿を凝視し、その生きざまから目をそらすことなく生きていきたい、そうすることで、己を一歩、また一歩と高めていきたい。そのような思いを強くしながら、私は「てげてげへの挑戦」を学生諸君に求めました。

思えば、「挑戦」は、志高く生きようとする者の当然の行為であり、若き人々の特権であり、また、教育に当たる者が自ずと身につけておくべき姿勢であります。安井息軒先生の夫人、お佐代さんを、『安井夫人』として世に出した文豪森外は、その著作に、すぐれた人物を登場させる時、お佐代さん同様、「その目は、遠く遠くを見つめていた」と表現するのが常でした。

丁度10年前、私達は、「2000年FD宣言」を発し、その冒頭部分において、「本学は、学ばんとする若者のために、何があろうとも、現在から未来にわたつて安井息軒先生ゆかりのこの地に在り続けなければならない。」と決意のほどを示しました。

あれやこれやを重ね合わせて考える時、「礼節と勤労」を建学の精神とする本学は、今の時代こそ、その存在意義がより強く、より大きくなったと言い切ってよかろうと思います。学生も教職員も、「てげてげ精神」を厳しく排除しながら、人としてのあるべき姿を求め続けていきたいと願っています。

(平成22.4.14記)山下 忍

学長折々の記(その11)

宮崎学園創立70周年の21年度は、宮崎学園短期大学としても、これを記念する様々の行事・事業を行ってきました。

9月1日に落成式が執り行われた新明教庵の誕生も大きな記念事業でしたし、10月12日の創立70周年記念式典の翌日に開催をみたミュージカル「ぞうれっしゃがやってきた」も、感動的な記念行事でした。あるいはまた、都城の地に於ける「宮崎学園短期大学フェスティバルin都城」も、いわば総力をあげての記念行事でした。そして、この2月2日に開催をみた文化勲章受章者日野原重明先生の講演が、創立70周年を締めくくる、本学としては最後の記念行事でした。

平成22年を迎えての最初の「学長折々の記」は、この記念講演について記しておきたいと思います。

講演についての感想を一言で言えといわれれば、私は、「元気と勇気をいただいた講演でした」と答えます。今年の誕生日で99歳、新たな年を迎えれば100歳におなりになる日野原先生の、何とお若く、潑剌としておいでだったことか。数百回に及ぶ講演において、初めてこの演題を用意したとおっしゃる「夢と勇気ある行動」において、先生は90分の講演予定時間を丸々使い切り、冒頭、聖書の「ローマ人への手紙」の一節をもとに、「まず、希望を持とう」と語りかけられ、クラーク博士の「Boys, be ambitious like this old man.」をもとに、重ねて希望を持つことの大事さを語られました。次いで、「Platonによる元徳」を紹介され、「勇気ある行動」(Brave Action)の何たるかについて語られ、「Modelをもつこと」の大事さに触れ、最後に、「よき友をもとう、ビジョンに向かって勇気をもって共に前進しよう、世界平和のために」と力強く語りかけられました。

全学生が、講演の90分間、全力で耳を傾けました。

本学園の大きな節目に、最高の方をお迎えし、最高のお話が聞けたことは、大変な幸せでした。講演をなさったその日のうちに東京にお帰りになり、その日のうちにお書きになった封書が、4日には学校に届きました。そのお便りの一節に、「当日の学生による合唱はすばらしいものでした。また、学内を詳しくご案内いただき、礼節を重んじた校風、建学の精神のあらわれに強く感動しました。」とありました。

お言葉を有難く拝受し、よりいい学園にすべく、学生と共に努力を重ねていきたいと思います。

(平成22.2.15記)山下 忍

学長折々の記(その10)

月の異称については、その謂れに何かと諸説がありますが、12月の異称の「師走」は、やはり「為果つ」が転じて「しはす」に至ったものであろうと思います。

12月は為すべきことを「為果てる月」と、改めて己に言い聞かせると、さて、この1年はどうであったろうかと、おのずと自省の念と、それ相応の覚悟が湧いてきます。師走に入って既に初旬が過ぎようとするこの日までを振り返ると、まことに数多くの出来事に彩られた月日であったと思います。

平成20年の4月に、男女共学校の宮崎学園短期大学として新たな歩みを始めましたから、今年の1月は、校名変更後の初めての正月でした。その三箇日が過ぎたばかりの七日に、明教庵全面改築の安全祈願祭が執り行れました。「礼節」の教場として、40年の長きにわたって本学学生に親しまれてきた最初の明教庵が、いざ取り壊しの日を迎えるとなると、学生にも教職員にも、言いようのない惜別の念が湧き出てきましたが、遂に辿り着いた宮崎学園創立70周年の記念事業としての新たな明教庵の誕生だとなると、これまた表現しようのない喜びが湧き起こり、まことに複雑な年の始めでした。

昭和43年に竣工を見た明教庵より、一回り大きな姿で誕生した新明教庵は、9月1日の落成記念式後、ただちに活用されていますが、今では学生達とも、周囲の風景ともすっかり馴染み、この一画は、本学にとって一層かけがえのない場所となっています。

時の流れを早くして、21年度の「春の忍ヶ丘祭」について記しますが、予定日の4月の25日は朝から雨で、5月9日の開催となりました。延期した甲斐あって、天気はまさに五月晴れ。学生と教職員一体となって土曜の半日を過ごしましたが、圧巻は1・2年生男子のリレー。迫力のある走りに、今や本学が男女共学となっていることをつくづくと感じたことでした。

あれこれの催しと成果に視点を当てて記しますと、新たに活動を開始した吹奏楽部は県大会において金賞、次いで出場した熊本での九州大会でも金賞を獲得しました。目下のところ少人数での活躍ですが、今に大きな成長を遂げるものと期待しています。一方、合唱団は、A、Bのパートが取り払われる中、東工大や同志社大、あるいは九大といった地区代表と共に全国大会での演奏を披露し、金賞、特別賞、そして、来年度全国大会へのシード権を獲得、大学の部第2位の成績を納めました。各地区代表の中で、短大合唱団は本学ただ一校。その「ただ一校」が全国2位となるのですから、その頑張りは、どう賞讃しても賞讃しきれないと言ってよかろうと思います。

色々な催しと喜びがある中で、今年の最大の慶びは、何といっても宮崎学園が遂に創立70周年を迎えたということでした。それを記念して、短大では新たな明教庵が誕生したということは、冒頭で記した通りですが、10月12日の記念式典を中心に、本学でも様々な行事が行われました。短大生と附属幼稚園生が一緒になっての記念ミュージカル「ぞうれっしゃがやってきた」は、その見事さと感動の大きさにおいて、今後ずっと語り継がれることと思います。人にせよ、物事にせよ、70年の歴史を刻むというのは容易なことではありません。その容易でないことを、宮崎学園は成し遂げたのです。そのことも大きな誇りとしながら、今後を潑剌と、かつ、エネルギッシュに過ごしていきたいと思います。

なお、本学としては大きな企画であった「宮崎学園短期大学フェスティバルin都城」も12月5日に無事終了しました。学生達も、内容を充実させるべく大きな努力を払ってくれました。都城を中心とする地域の方々に、本学が何を目指し、いかなる活動を日々行っているかを、これまで以上にご理解いただけたものと思っています。為すべきことを着実に実践する。「前へ!」の精神で開拓的に事を進める。そうした思いと行為のもとに、新たな年も力強い歩みを続けていきたいと覚悟しています。

(平成21.12.7記)山下 忍

学長折々の記(その9)

古希の祝いの重みと深さ。今、そのことをしみじみと感じています。

10月の12日を迎えるまでに、記念事業として竣工をみた明教庵の落成記念式、あるいは、 法人宮崎学園の各所属校のパネル展等、70周年に係わる催しが次々と行われてはいたものの、いざ、記念日の10月12日を迎え、幼稚園生から大学生までが参列しての記念式典開催となると、やはり、他と比べようのない感慨が湧いてきます。

式典時の理事長挨拶に耳を傾けていますと、二つの幼稚園に中学と高校、そして、短大、大学を有する学校法人宮崎学園が、70年の歴史の中で、一つまた一つと、煉瓦を積みあげるがごとくして今日に至った苦労と喜びの日々がよく伝わってきましたし、何はともあれ式典の場に身を置こうとして駆け付けていただいた東国原知事の祝辞からは、宮崎学園の若者よ頑張れという暖かいエールが伝わってきました。

暖かいと言えば、知事さんの「おはようございます」という冒頭の挨拶に、参列していた幼稚園児が、ひと呼吸置いた上で、口を揃えて、「おはようございます」と大声を発したのは、何ともあたたかく伸びやかで、知事のお顔が、とたんに笑みに包まれたのも、まことに、うべなるかなという状況でした。

今一つ園児について記しておきたいのは、みどり幼稚園の子どもたちや、清武みどり幼稚園の子どもたちが、記念日翌日の13日に、観客全てを感動の渦に引き込む姿で、ミュージカル「ぞうれっしゃがやってきた」を演じてくれたことです。年少組や年長組の子どもたちが、身振り手振りを添えてきれいな歌声を披露し、次いで、年長組の子どもたちがミュージカルを演じてくれたのでしたが、音楽科生や音楽療法専攻の学生とすっかり一体化し、大きい声と大きい動作で、堂々と「ぞうれっしゃがやってきた」を演じ切ってくれた姿は、言葉に尽くしようのない感動でした。

こうした光景のもとで、古希を迎えた宮崎学園を思い、その一員たる宮崎学園短期大学に思いを馳せました。創立70周年を記念するテーマは、「創造と継承〜教育で拓く未来の夢〜」ですが、広く世に問うたテーマを、自信をもって堂々と口にできるというのは、これもまた大きな幸せであります。

(平成21.10.17記)山下 忍

学長折々の記(その8)

今年で64回を数える「九州合唱コンクール」は、9月の13日、沖縄の県コンベンションセンター劇場で開催され、県代表として出場した本学は、願い通りに9年連続の金賞を獲得、合わせて大学の部の第1位に授与される宜野湾市教育委員会賞も取得し、全国大会への出場権を手にしました。そうなるべく努力を重ねてきたとはいえ、現実にこうした成果を目にすると、よくやり抜いたねと、心底から喜び、称える念が湧いてきます。

思えば、この種の大会に、2年の在学期間しかない短期大学が参加すること自体が困難であるのに、有川サチ子先生という最高の合唱指導者の、この上なく厳しく、それ故にこそ、この上なく暖かいご指導をいただき、加えて、伴奏者と顧問の学生を思う必死の力添えがあり、今や幾年にもわたって全国に誇り得る成果が誕生していることに、どう感謝してよいか分かりません。なおかつ今回は、コンクールの審査に当たられた4名の方々から、本学合唱団の演奏に関して、元気百倍となる講評をいただきました。それぞれのお言葉の一部を記して、「折々の記」の「その8」と致します。ありがとうございました。

歌詞をしっかり表現出来る磨かれた声で、作品にこめられた想いを豊かに歌いあげられ、とても感動的な演奏でした。

聴かせる演奏、説得力のある演奏、立派でした。!!

バランスの良いハーモニーに、豊かなフレーズ感、ディクションも正確で的を射たものでした。

発声上のテクニックがどのパートにも身につけば、充分ヨーロッパの大会でも戦っていけるレベルにすぐなれます。将来がすごく楽しみです。とても感動しました。ありがとう!

(平成21.9.18記)山下 忍

学長折々の記(その7)

「折々の記」(その2)では、今年の正月以降、新たに建造を進めていた「明教庵」について記しておきましたが、その建物が8月一杯で完成し、9月の1日に落成記念式が執り行われました。この日から授業が再開されていて、多くの学生が参列することは叶いませんでしたが、学友会会長が清楚な姿で出席し、学園理事長の挨拶、清武町長の祝辞、そして、音楽科学生の祝賀の歌等、まことに深く記憶に残る式典となりました。

その落成式の数日後、参列者のお一人から、次のようなお便りをいただきました。

先日は、素晴らしい明教庵落成式に出席させていただき、ありがとうございました。 聖なる時と場を経験できたこと、まことに嬉しく感謝しております。37年前に学び、青春を楽しんだ短大が、どっしりと大きくなっていることに、喜びでいっぱいでした。なんだか不思議な気持にもなりました。職員、学生の皆様の優しい笑顔の挨拶に、年月を忘れ、あの頃の友に会えるような気がして、声が聞こえてきそうで、それを探している自分がいました。変わらぬ爽やかな空気、木々の香りの中に、なつかしさ、思い出が重なり、元気を頂きました。式典歌「落葉松」、感動的で、一生忘れ得ぬ一シーンとなりました。

お便りには、この様に記されていて、この後に、「栄ある母校に恥じぬ様、生きなくてはと心することでした。」と、気持を込めたお言葉が添えてありました。

拝読しながら、今現に、宮崎学園短期大学で過ごしている私たちこそが、ここで学び、ここを巣立っておいでになった方々のためにも、恥じることなき生き方をしなければならないと思ったことでした。礼節を学ぶ和室、洋室の広間があり、お茶室も用意されているこの明教庵を、本学関係者だけでなく、多くの方々が訪れていただけたらどんなによかろうと、そんな思いに浸ったりもしています。

(平成21.9.16記)山下 忍

学長折々の記(その6)

季節の移り変わりは正直で、9月も半ばに入ろうとするこの時期、本館玄関前の、今や本学のシンボルツリーとしての貫禄を見せている銀杏樹も、すっかり秋の気配を漂わせています。

本学は、この月に前期の締めくくりとしての授業や試験を行い、学生も教職員も忙しなく過ごしていますが、7月10日から8月一杯の夏季休業中も、休業を返上しての様々の行動を取っています。高校生やその保護者の方々に本学を理解していただくためのオープンキャンパスも2回ほど開催しましたし、介護職の方々を対象とした「介護技術講習会」、幼稚園の先生方を対象とした「教員免許状更新講習会」、そしてまた、音楽の世界を志す高校生を対象とした「音楽夏季講習会」等々、真摯に、かつ、全力で実施しました。学生たちも頑張って、「医療機関実習」を行ったり、「保育実習」に取り組んだり、各種の集中講義を真剣に受講したりしてくれました。そうした忙しさの中でも、学生たちは、学生による学生のための活動にも取り組み、県大会で金賞を獲得した吹奏楽部は、8月の九州大会で、初参加ながら銀賞を手にしました。一方、合唱団は、8月初旬の県大会で、8年連続全国大会出場の実力のもとに、美しいハーモニーを披露し、金賞に加えて特別賞をも獲得しました。学校にあっては、教職員の頑張りも元より大事で、その活躍によって大きな成果を得るのは、嬉しく、また、有り難いことですが、学生たちが、その積極的な活動によってすばらしい結果を生むというのは、何物にも勝る喜びであります。

2年間の勉学期間で短期大学士の学位を取得し、長い人生の支えとなる各種の免許、資格、称号をわがものとする。そのことに加えて、己のよしとする分野での活動を、己の意志で行い、成果を上げ、多くの人々に多大の感動を与える。私は、そういう姿が、現に私たちの学校に在るということに、大きな誇りと幸せを覚えます。

(平成21.9.10記)山下 忍

学長折々の記(その5)

去る7月の11日から26日にかけて、第54回宮崎県吹奏楽コンクールが、宮崎市民文化ホールにおいて開催されました。

本学は開催初日に、県内の高専・大学と共に「高等学校A・大学」の部に出場し、昨年度同様金賞を獲得、合わせて、金賞受賞校中の優秀校として九州大会の出場権をも手にしました。多人数の迫力ある演奏に、少人数にて対抗し、澄み切った美しい音色で金賞を獲得したというのが、もとより第一に嬉しいのですが、今回は、そのことに加えて今一つ心躍る出来事がありました。

大会当日の早朝、私は、翌日実施のオープンキャンパスの準備のこともあって、学内にある国際交流センターに出かけたのですが、偶然にも、その一角で最終の練習をしている吹奏楽部員のみなさんに出会いました。部員は、学生指揮者の杉本祐樹君の指導によく従いながら、全力で最後の仕上げを行っていました。私はその真剣さに心打たれ、練習会場に居続けていました。開催場所の文化ホールに移動しなければならない時刻となり、練習が終了した時、杉本君はポケットから何やら取り出しました。取り出したものを握りしめたまま、杉本君は部員全体に次のように語りました。「やれるだけの練習はやりました。後は、自信を持って演奏に臨みたい。今からお渡しするのは、僕の手作りのお守りです。これを持って、お互いに心を一つにして演奏を行いたい。」それから、杉本君は、吹奏楽部員の一人ひとりに手作りのお守りを渡していきました。渡し終わった時、部員からは大きな拍手が湧きました。

私は、いい場所に居合わせたことに感謝しました。生き続けていると悲しいことにも出会いますが、いいことにも一杯出会います。この日は、最高の幸せに出会いました。この幸せのもとに、金賞を獲得してくれたのですから、何ともすばらしい第54回県吹奏楽コンクールでした。

(平成21.7.16記)山下 忍

学長折々の記(その4)

私の、宮崎学園短期大学での歩みは、14年目を迎えています。平成8年に清武の地に在る本学に着任しましたが、その年以来、私の胸中にはこの町に対して一つの強い思いがあります。

それは、この町が、島根の津和野的存在になってほしいという願いです。

この土地の生まれでもなく、住み慣れているとはいっても、まだ13年そこそこの月日しか過ごしていない身で、こうした願いを抱き続けるのは、一種の思い上がりかもしれません。しかし、それは、抑えようのない私の強い思いです。

どうして、津和野と重なる姿で清武の町を考えるのか。

文教の町と呼ばれる清武には、その名の通り、4年制大学として宮崎大学と宮崎国際大学があり、短期大学としては本学があります。人口3万人の町に三つの大学が存在する、まさに学生の町であり、若者の町です。そして、津和野は、周知の通り若者に人気の町として、全国の若者を数多く呼び寄せています。

町を取りまく自然の風物はどうか。津和野出身の、画家にして文筆家の安野光雅が、岩崎書店から世に出した「津和野」に目をやると、そこに描かれた世界と清武のそれには、建造物等において趣きを異にするものがあれこれとあります。しかし、津和野を流れる錦川と清武川、町並を守るがごとき山々の連なり、歴史を語る石垣を彩るつわぶきの花、その他諸々、二つの町には、その風物において共通するものが多々あるのも事実です。併せて、わが町、清武は、いわゆる「先哲」の存在において、津和野の地とまことに縁深きものがあります。

私は、文豪森鷗外が世に出した作品の中で、息軒先生の妻お佐代さんを描いた「安井夫人」は、「高瀬舟」等と並ぶ傑作だと思っていますが、漢籍を読むのに堪能であった鷗外は、大儒息軒の著作に目を通し、その知識の豊富さだけでなく、作品の根底を流れる人柄、生きざまに深く共感し、その感動的思いのもとに、「安井夫人」を誕生させたのだと思っています。そして、私は、そうした作家としての行動をとってくれた文豪鷗外に対して、他の作家と比較しようのない敬愛の念を抱くのです。

鷗外に寄せるそのような思いもあって、津和野を訪れたことがありますが、鷗外の生家と息軒先生の生家が、その間取り等において余りにも似通っているのに大いに驚き、その折も、清武と津和野の結びつきに、何か因縁めいたものを覚えたものでした。

何はともあれ、津和野の町には、若者の心を穏やかにする魅力と共に、散策する若者を思索の世界に引き寄せる力があります。そして、私は、清武の地にも同様の世界が誕生しておかしくないし、そうなるに十分な条件を備えていると思っています。

島根と日向清武の地に、二つの津和野あり、それもまた、愉快なことだと思うのです。

(平成21.7.3記)山下 忍

学長折々の記(その3)

平成21年の6月は、宮崎学園短期大学教職員の一人として、忘れることのできない月間となりました。

中旬の19日(金)、NHK宮崎の「いっちゃがTV」に、宮崎国際大学の学生たちと共に、本学学生が多数出演しました。「いっちゃがTV」は、NHKが誇りとする地方番組ですが、夕刻4時50分から6時まで、普段より10分時間を延長しての生放送に、合唱団の学生やら、寮生その他の学生やらが数多く出演したのです。本学で学んでいる「こども音楽教育センター」の少女たちも出演してくれました。

それでも、短大キャンパスから放映のテレビ番組に、多くの者が出演したというだけのことなら、「忘れることのできない思い出」にはなりません。忘れ難き思い出となったのは、合唱団の歌声も、寮生代表の話も、その他全ての出演者の挙措動作が、言いようもなく美しかったからです。清武クイズに出た学生たちの笑顔の、何ときれいであったことか。本学学生を孫に持ち、テレビを始めから終りまで見つづけられたおじいちゃんが、「あんたは、あんなにもすばらしい短大に通っているのか」と、しげしげと孫娘の顔を見つめながらおっしゃったという話も、「おじいさん、よかったですね。」と喜びを共にしながら、素直にうなずくことができます。「明るく元気にあいさつをかわす」という本学の生き方が、多くの人々の目が注がれる場面で、はじける笑顔となって映し出される。そして、その笑顔が、お年寄りにも大きな元気を与えていく。そうしたことの湧き起った19日のテレビ生放送でした。

そして、1週間後の今日26日、新たな感動を、またもやいただくことができたのです。

本学と宮崎国際大学の共用施設である宮崎学園図書館の主催で、「第1回ミニミニコンサート」が図書館2階で開催されました。館内で読書しようとしている人々等のことも考えて、12時30分から50分までのまさにミニミニのコンサートでしたが、よくぞ第1回の開催にこぎつけていただいたと、感謝することしきりでした。第19回日本クラシック音楽コンクールで、見事全国4位を獲得した音楽科2年生の中川誠宏君のテノール独唱も圧巻というべきものでしたし、吹奏楽部の3曲の演奏も味わい深いものでした。図書館の音響効果のよさも驚きでした。本学としては、まさに革新的と言っていい催しが、こうして感激を生んでいくことに、何か、大きく花開いていく未来を感じます。

はじける笑顔と、開拓的行動をとる学生に、どうぞ、でっかい幸せあれ!

(平成21.6.26記)山下 忍

学長折々の記(その2)

今日は、在学生はもとより、本学の卒業生の誰もが忘れることのできない「美人坂」について記してみようと思います。

JRの清武駅から歩き始めて、新町橋を渡り、坂下の歯科医院に行きつきます。そこから結構な勾配のあるくねくね道を通って短大に至るこの坂道を、学生達はいつの頃から「美人坂」と呼ぶようになったのでしょうか。

高校に勤務し、学級担任として仕事をしていた30代の頃、受け持つ生徒の一人が宮崎女子短期大学を受験したいと申し出てきました。実際に短大を見学したことがあるのかと尋ねたところ、無いとの返事。親御さんとも相談し、当人と両親、それに担任の私の4人、父親の運転する車で短大までやってきました。到着寸前に通ったのが、このくねくねとした坂道でした。その折に学内をご案内していただいた短大の先生が教えてくださったのが、「美人坂」という何とも忘れ難い名称でした。短大が創設されて、まだ何年も経たない頃の出来事ですから、「美人坂」の名は随分と昔から使われていたのではないかと思っています。

ところで、「美人坂」は、美人の通る坂とも取れるし、それなりに気合を入れてないと往来できない坂道ですから、その坂を登下校するうちに両足は自ずと引きしまった美しい姿になるとして、この名が生まれたのかもしれません。いずれにせよ、宮崎学園短期大学を語る折には、見逃すことのできないポイントの一つです。

坂を上り切った所で右手に折れて、今は通用門となっている所を入り切ると、左手の一段高い敷地に「明教庵」があります。本学で学ぶ者が必ず取得しなければならない必修科目「人間の研究(礼節)」を学ぶ場所です。「礼節」を学ぶ所と限定してはよくないかもしれません。本学の建学の精神「礼節と勤労」を象徴する建物です。昭和43年に建造され、永年にわたって学生を見つめ続けた第一世の明教庵は、平成20年が過ぎ去るのと時を同じくしてその役目を終え、今年の正月以降、第二世が建造されつつあります。美しい姿で完成に近づいている新たな明教庵については、改めてこの「折々の記」で紹介したいと思います。

美人坂の両脇も、空気の澄んだ緑一杯の場所ですが、明教庵の周囲もまた、昔と変わることなく、きらきらと輝く緑に包まれています。

(平成21.6.16記)山下 忍

学長折々の記(その1)

短大周辺で一番好きな場所は、と問われれば、私は一も二もなく安井息軒先生の旧宅付近と答えます。

本学を含む中野地区一帯が、緑豊かな落ち着きのあるいい所ですが、息軒先生旧宅の周辺となると、また格別の趣があります。道路から数段上り、数本の梅の古木を目にしながら先生宅に近づくと、いつもそうなんですが、低く、しかし、確かな声が聞こえてきます。息軒先生の、幾人もの学徒を前にしての講読の声です。怖い声ではありません。学問の場所によく来たねを誉めていただく温かい声なのです。折にふれてこの場所を訪れ、縁側に腰を降ろして一刻を過ごすのは、あるいは先生のこの声を聞きたいが為なのかもしれません。

息軒先生と親しく呼んでいますが、先生の学問の世界を詳しく承知しているわけではないのです。私の先生に対する承知と理解は、そのほとんどが森鴎外の「安井夫人」を通してのものです。しかし、私は、息軒先生がいかなる人物であり、その妻お佐代さんがいかなる女性であったかを理解するには、この「安井夫人」を精読し、この作品を限りなく大事にすることで十分だと思っています。「安井夫人」を、息軒先生に倣って、低く、ゆったりと音読していると、何よりも勉強をしなければという思いが湧いてきます。先生が高きに至ることを願いながら寸刻を惜しんで学問に励んだごとくに、自分を鞭打ちながら努力を重ねなければと思います。

たとえ、私淑であろうと、敬愛する人に身を寄せていると、自分でもびっくりするほど素直になるから妙です。

その素直さと純なる心で、「三計とは何ぞや」を考えます。「一日の計は朝に在り」、「一年の計は春に在り」、「一生の計は少壮の時に在るなり」。息軒先生は、わが手で作ったこの「三計」を、くり返しくり返し、、何百回も己自身に言い聞かせ、その上で、わが教え子達に厳しく伝えたのではなかったか。そして、その妻お佐代さんは、限りなく己に厳しい夫が、片方だけの眼で学問をし、また教授するのに障りがないように、わが身を飾ることもなくその生涯を送ったのではなかったか。「三計」を考えながら、そんなことを思ってみたりするのです。

本館から学生寮へと学内を巡視している折に、私はふと足を止めることがあります。ああ、この場所を仲平さんも、その妻となったお佐代さんも散策したことがあるのだと、懐かしく思うことがあるからです。そうした折は、この土地、この場所で、学生と共に過ごし得ていることをつくづくと幸せに思うのです。

(平成21.6.9記)山下 忍

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